ナーラダ・バクティ・スートラの一部を載せます。この経典は全てで84節からなります。

ナーラダ・バクティ・スートラ(訳)
 
(1)さあ、これよりバクティについて説明せん
(2)それは主に最高の愛(パラプレーマ)を顕わすものなり
(3)それは永遠を、その本質として持つものなり
(4)それを得るや、人は完成され、不死となり、平安に至る
(5)それを得るや、何をも望まず、嘆かず、憎まず、喜ばず、また物的に動かされることもない
(6)それを知るや、心は魅了され、感動し、また満ち足りる
(7)それはこの世的欲望でなく、放棄をその姿として持つがゆえ
(8)その放棄とは、この世的慣習、ヴェーダ、儀式を放棄することなり
(9)心より主に尽くして、それに妨げとなるものに無関心となる
(10)そして他の何にも庇護を求めることはない
(11)この世のしきたりも、ヴェーダも、それに好ましきものだけを行い、反するものには無関心となる
(12)しかし確固としてそれに確立を得た後でも、シャーストラ(聖典)は遵守すべきである
(13)さもなくば堕落する可能性があるだろう
(14)社会規範や、食すなどの活動も、肉の身を持つ間は必要だからだ
 
(15)その道の特徴は、それぞれ異なって語られよう
(16)プージャー(礼拝)などを好むと、パラーシャラの息子(ヴィヤーサ)は語る
(17)主の物語について語るなどを好むと、ガルガは語る
(18)アートマンに喜び、その障害を除くことだと、シャーンディリヤは語る
(19)しかし私ナーラダは、主にすべての活動を捧げることだと、そして主を忘れることは大いなる苦しみだと語る
(20)それにはその実例が見られよう
(21)ちょうどヴラジャのゴーピー達のように
(22)彼女達においては、主の偉大さに気づかぬと言う非難は当たらない
(23)それ(主の偉大さ)を知らぬとしたなら、不義の愛人にも等しいだろう
(24)そのような中には、愛する者の幸いを喜ぶ思いはないからだ
(25)それ(バクティ)はカルマ、ジュニヤーナ、ヨーガよりも優れているだろう
(26)なぜならそれ自ずからが、その到達点であるからだ
(27)またイーシュヴァラ(主)は、驕る者を嫌われ、謙虚な者を愛されるからだ
(28)ある者はジュニヤーナだけがその手段だと話す
(29)更にある者は、両者(バクティとジュニヤーナ)は互いに依存し合うと話す
(30)だがブラフマーの息子(ナーラダ)は語る、それ(バクティ)そのものがその結果なのだと
(31)ちょうど王宮の食事などを例に見られるように
(32)それを見ただけでは、王は喜ぶことも、癒されることもない
(33)それゆえ解放を望む者は、ただそれ(主への最高の愛)だけを受け入れるべきなのだ

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